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「俺はプログラマーで勝負しよう」インターネット黎明期を生き抜いた男

株式会社ソフト開発
代表取締役   大野 純一氏
公開日:
2025.05.17
更新日:
2025.05.27

バイト感覚で行った会社説明会でまさかの内定。しかし過酷な労働環境で同期は続々と退職 

まずは大野さんの御社へ入社するまでの経歴を教えてください。

僕はもともと九州の福岡県出身です。

ただ、博多や小倉といった都市部ではなく、ちょうどその中間くらいの地域ですね。昔は「炭坑節」発祥の地として、石炭鉱が盛んだった場所です。高校卒業後は島根大学の理工学部に進学し、植物生態を専攻していました。

植物生態の学びを生かせる就職先といえば、学校の先生になるか、製薬会社のプロパー(営業職)になるかの二択くらいしかありませんでした。

当時は、コンピュータとは無縁の生活を送っていましたが、卒業間際に「ソフトウェア」という言葉を耳にするようになりました。就職活動中に、企業からの募集案内が毎日のように届いており、その頃の就職情報には『来てくれれば交通費と宿泊費は全額支給』というようなものもたくさんありました。


ちょうど夏休みだったので、当時、法政大学に通っていた弟を訪ねるついでに、東京にあるソフトウェア関連の会社を10社ほど訪問することにしました。就職活動というよりは、気軽な気持ちで東京へ行き、アルバイト感覚で会社訪問をしようと思いました。企業側も学生に来てもらうため、交通費・宿泊費などで1社あたり3万円ほど支給してくれるところもあり、学生だった自分にとってすごく魅力的でした。

その中にソフト開発様があったのですか?

最初に行ったのが五反田にあった『総合計画』という会社で、後に僕の会社の親会社になるのですが、その時点ではまだ子会社の『ソフト開発』は設立されていませんでした。


僕自身は特にコンピュータに興味があったわけではなく、正直、就職するつもりもあまりなかったのですが、せっかく東京に来たので話だけは聞いてみようという感じでした。当時はパソコンもまだ一般的ではなく、ようやくシャープの『MZ-80K』が出始めた頃でしたね。
大学の研究室で山林の植生分布図のコンピュータ解析結果が、私が現地調査で見た植生の分布とあきらかに違っていて、そのことを意見すると、先生は『コンピュータの解析が正しい!お前らの調査データが間違っているのでは!』と言っていましたが、今考えると、当時のプログラム自体がかなり適当なものでしたね。今では考えられないことですが、当時はコンピュータに対する信頼もそんなレベルで、人のバイオリズムを計算するようなソフトが流行っていた頃です。

ただ、実際のところ、バイオリズムの計算は普通に数学で解けるわけです。僕自身、コンピュータは、あくまで人間が「より人間らしく生きるための道具」だと考えていました。そろばんのように、利益を生み出すための手段に過ぎないと。そんな話を面接時、当時の社長にしたら『君は面白いね』と興味を持たれたんです。

その時に入社を決めたんですか?

いえ。実は、その時に少しお話した総務の女性の言葉で入社を考えたというのが事実です。

面談は30分程度で終わったので、『では、交通費をもらって帰ります』と言ったのですが、総務の方が『面談だけだと交通費は半額しか出せないんです。もし筆記試験を受けてくれたら、全額支給できますよ』と言うんです。

試験時間は30分だったので、せっかく来たしと思って受けることにしたんです。試験はマークシートの4択問題で、10分ほどで適当に解いて提出しました。その時、総務の女性が『もう終わったの?』と驚いていましたが、試験の内容は正直それほど難しくなかったので、『まぁ、大丈夫だろう』と思って帰ろうとしました。

でも、そのとき総務の女性がこう言ったんです。『私たちの会社は、富士通さんやNECさんのような大企業ではありません。でもソフトウェアという分野で、これからの日本の社会を支え、人の暮らしに貢献できる会社になれるよう本気で取り組んでいるんです。もし、あなたのような優秀な若い方に加わっていただけたら、本当に嬉しいです』と。その言葉にグッときました。

その会社の社員の方々が心から会社のことを考え、大切に思っているのが伝わってきたんです。その瞬間、『今日の自分の態度は良くなかったな、失礼だったな』と反省しました。その場で交通費を返そうかとも思いましたが、それも出来ず、とりあえず帰ることにしました。


2~3日東京見物をして下宿に帰り着いたら、なんとその会社から内定通知が届いていました。驚きました。正直、適当に解いた筆記試験の結果も良くなかったはずですし、『こんないい加減な採用でいいのか?』と思いました。しかしそのまま放置していたら、社長から直接電話がかかってきて、『内定通知が届いたでしょう? ぜひ来てほしいと思っているんだけどどうする?』と言われました。その瞬間、何だか申し訳ない気持ちになってしまって…結局『行かせていただきます』と答えたんです。(笑)

入社までにそのようなドラマがあったのですね。入社後はどのような業務に携わってこられたのですか?

当時、会社には15人の新入社員が入社していて、それだけ景気が良かったんでしょうね。採用されたメンバーもそこそこ優秀な人たちが集まっていました。

しかし研修が想像以上に厳しかったんです。僕らは、研修と言えば、学校の授業のように研修担当の先生が来て、プログラムの書き方やコンピュータの仕組みを講義で教えてくれるものだと思っていました。実際、そうした教材や講義があると思っていましたが、まったく違っていました。会社側からは、一応テキストが渡されましたが、『これを読んで、〇〇日までにこのプログラムを作って提出してください。よろしく。』と言われただけ。先生も講師もいないんです。

15人の同期が会議室に集められ、みんな戸惑っていました。半分くらいはプログラミング未経験者だったので、『これ、一体どうすればいいんだ?』とお互い顔を見合わせるばかり。すると社長がやってきて『君たちは一体、うちの会社に何をしに来たの? 進捗状況はどんなぐあい?』と聞いてきたんです。『いやいや、まだ研修が始まったばかりで、何も教わってないんですけど…』と言ったら、『先生なんていないよ。マニュアルを読んで、わからないところがあれば自分で調べて質問するんだよ』と、ニコニコしながら言われました。

コンピュータの知識がない中でそれは混乱しますね。

そうですね。この会社は、問題解決力を非常に重視していました。ある課題が与えられ、そこから問題を洗い出し解決に向けて自らが考えて行動する能力が求められたんです。つまり、学校とは180度違う環境でした。

しかし、企業では知識を教えてもらうのではなく、自分で必要な情報を集め、整理し、アウトプットすることが求められる。『君たちは今まで知識をインプットしてきたけど、これからはアウトプットが必要なんだ』と説明されました。

今からするとまるでブラック企業のようかもしれませんが、当時の社長は温厚な人で、怒鳴ることも無ければ、物で机を叩くようなことも無く、終始ニコニコしていました。ただし、課題は絶対にやらせる。『今日は何をやる? いつまでにやる?』と聞かれ、みんな『19時くらいまでには終わらせます』と答えるのですが、実際にはそんなに簡単にできるはずがない。でも『できるまで頑張ってね』と言われるので、やらざるを得ない。

結果、夜の8時を過ぎても誰も帰らず、ついには誰かが『今日は失礼します…』と席を立つと、『お疲れさん。ちなみにできた? レポート持ってきて』と聞かれ、『いや、できていません…』と答えると『納期があるよね?』と返される。


新人だから、当然ながら逆らえない。今だったら確実に労働問題になるような環境でした。
でも当時は『これが普通なんだな』と思っていました。そうした毎日が続くうちに、半年後には15人いた同期が1/3の5人しか残っていませんでした。(笑)

過酷な環境で同期も辞めていく中で当時の気持ちはいかがでしたか?

最初の頃は『これはやってられないな』という気持ちが半分でした。というのも、アウトプットを出すためには、事前にそれに必要な知識がある程度教えられるべきだと思うんです。
でも、当時はそういう仕組みがなかった。

今ならインターネットで調べればすぐに情報が手に入りますが、あの頃は本屋か図書館に行って専門書を探すしかありませんでした。それに、当時はC言語もまだ日本には普及しておらず、すべてアメリカから輸入するような状況でした。当然、マニュアルは英語。ただでさえ英語が苦手なのに、それを読んでプログラムを書かなければならなかったんです。とにかく時間がかかりましたね。

そういった中でプログラマーはかなり貴重だったんですよね。

その通りです。プログラム言語を扱えるというだけでも貴重な存在で、C言語を使えること自体がすごいことでした。そのため過酷な環境下でも、プログラマーたちはプライドを持っていました。アセンブラやFortranといった言語が使える人は、コンピュータに直接命令を出せる特別な人材として重宝されていたんです。

しかし、うちの社長は『いずれプログラマーなんてものは不要になる』と言っていました。
コンピュータそのものの意味がなくなると考えていたんです。むしろ上流設計ができる人材が重要になると。だから、最初にプログラムを作らせる課題を与えたのも、プログラミングの技術を身に着けさせることが目的ではなかったようです。未経験の新人たちに敢えてプログラミングを早期に一通り習得させ、次のステップとして最適なシステム構築の出来るエンジニアを養成し、問題解決型のビジネスに対応できる力を身に着けさせようとしていました。その方針のもと、プログラムのコーディングはすべて外注していました。でも当時の会社の規模やメーカーからプログラミングの受託をメインに営業していたソフトウェア開発会社のスタンスとしては本末転倒に写りました。

プログラムが外注されていたのは驚きですよね。

そうですよね。ただ外注費は高く、品質も安定しませんでした。結局、親会社である『総合計画』は富士通やNECなどの大手コンピュータメーカーからクレームを受けることが増えたんです。そこで仕方なく、自社で管理が出来るプログラム開発を行うために設立されたのが、子会社であるソフト開発でした。

しかし親会社の考え方は変わらず、ソフト開発はあくまでもプログラム開発工場の位置づけ。本体は、上流設計をする総合計画のほうでした。そんな環境だったので、グループ内でプログラミングに長けたプログラマーたちが次々と辞めていきました。『こんな仕様書でプログラムなんて書けるか!』と怒鳴りながら辞める人もいましたね。彼らは当時の技術者の中でも特に優秀な人たちで、名の知れたエンジニアも多くいました。

そうした中、大野さんが親会社からソフト開発で働くことになった経緯は何ですか?

親会社から出向を命じられました。入社3年目くらいのことです。その頃は、親会社のやり方に疑問を感じていました。『プログラムを扱う会社なのに、プログラマーをもっと大切にすべきじゃないのか?』と。

そう思っていた矢先に、僕の上司が本社からの出向でソフト開発の社長に就任し、部下の僕にもソフト開発に異動命令が出たのです。

当時の親会社の社長はプログラムを書けない人でした。 総務系の出身で、問題解決能力や経営のノウハウには長けていましたが、実際のプログラム開発には関与できない。そうした状況の中で、『この会社にいて本当にいいのか?』という思いが強くなっていきました。その頃には、辞めていった先輩たちが独立して会社を興したり、大手企業で活躍していました。

彼らからは『うちに来てもいいよ』と声をかけてもらうこともありました。でも僕は入社時に親や先輩のコネに頼らず、周りの反対を押し切ってこの道を選んだ手前、簡単には辞めたくなかった。とにかくやれるところまでやろうと思い、ソフト開発で頑張ることを決めたんです。

入社してから特に印象に残っていることはありますか?

何度となく、会社存続の危機がありました。

1991年に私の上司でもあったうちの会社の社長が親会社の都合で、ソフト開発から親会社に戻ってしまい、社長不在の次期があって、その後の経営もかなり不安定になりました。

更に、会社法の改正があり1996年には資本金が1,000万円に満たない株式会社は、有限会社に移行しなければならなくなったんです。当時、ソフト開発は親会社の100%子会社で、資本金はわずか300万円でした。このままでは株式会社の資格を失ってしまう状況でした。

今でこそ、有限会社でも問題は無いかもしれませんが、当時は株式会社であることが一種のステータスで、信用にも関わる重要な問題でした。僕は既にこの会社の経営にも携わっていたので、親会社の社長に資本金を増やしてもらえるよう相談しました。『せめて500万〜700万円に増資できませんか?』と持ちかけたんですが、『今は資金的に厳しいね』と言われました。

そこで、売り言葉に買い言葉で『では、僕が700万円出資して1,000万円に増資します。その代わり、筆頭株主になりますよ。そうなると、親会社の言うことを聞かなくなるかもしれませんが、それでもいいですか?』と言ったら、

親会社の社長から『好きにやっていいよ、君にまかせる』と返されました。僕は当時まだ27歳か28歳くらいでしたし、自分の借金もあり、給料も決して高くありませんでした。でも会社を存続させるためにはやるしかないと思い、自分たちで増資する事を決断したんです。

27、8歳でその決断はなかなか出来ないですよね。どうやって増資を実現させたのですか?

そこでわずか5〜6人しかいない社員に『みんなに株主になってもらえないか?』と相談しました。もちろん、いきなりお金を出せと言われても難しいですよね。

当時のソフト開発はいつ潰れてもおかしくない状態だったので、リスクが高すぎる買い物でした。

でも、それでも何とか1,000万円を確保する必要があったんです。
当然僕自身も出資しなければならないので、毎月の自分の給与から20万円前後を天引きして、資本準備金として積み立てすることにしました。

そして、社員にも『月々少しずつ給与天引きで出資してもらえないか?』とお願いしたのです。 正直、誰も応じてくれないと思っていました。

でも、結果的に全員が出資を決めてくれたんです。特にある女性社員は、『今、使っていない貯金が30万円あるので、こを株式にあてます。あと月々5万くらいは積み立ててもかまいませんと』と言ってくれました。その姿勢を見て、他の社員も『じゃあ俺も1万円ずつ』『ボーナスのときに5万円』と、少しずつ出資を決めてくれたんです。
こうして、3年間積み立てを行い、最終的に700万円を確保しました。そして、親会社が持っていた僕の株300万円分と相殺する形で、ソフト開発は完全に、親会社から独立しました。

歴史にもしもは無いといわれますが、うちの会社が独立して間もなく、急に親会社の社長がお亡くなりになり、その途端に人が流出、アッという間に親会社は消滅してしまいました。

もしこのタイミングで、増資する事を決断し、実行できていなかったら、ソフト開発そのものが消滅していたかもしれません。

社員が一丸となって会社の存続を支えたのですね。株式会社として存続できてからは、どのような事業に携わってこられたのですか?

事業が軌道に乗り始めたのが2000年頃。

ちょうど携帯電話の開発が始まり、通信技術も進化していた時期でした。当時、僕らは通信系の開発を手掛けていて、某メーカーから依頼を受けて基地局の制御ソフトを開発していました。これが非常に大きな仕事で、横須賀にあるテクノパーク内の研究所で日夜作業をしていました。現場では過酷な作業が続き、過労で倒れたりエスケープする人が続出するような環境でした。今では考えられませんが、まさに命がけで仕事をしていました。その甲斐もあって、開発に携わる社員もノウハウを吸収して、1人あたりの売上が年間2,000万円を超えるくらいに成長できた時代でもありました。

メーカーと培った技術を生かし地域創生へも注力

御社が取り組まれている地域との関りについてお伺いしてもよろしいでしょうか。

私たちは営業担当がいないため、開発は出来ても、製品を売ることが出来ません。だからこそ、地域の企業や異業種のパートナーとアライアンスを組み、共同で事業を進めていく必要があります。

まだ実証実験段階ですが、『地域の支え合い交通システム』もその一つです。
最近、ライドシェアが解禁され、二種免許がなくても運転できる仕組みが整い始めてきました。これを地域で活用し、高齢者や子どもたちの移動をサポートできるようにしたいと考えています。

例えば、高齢者が数キロ先のスーパーに行きたいと思っても、タクシーを呼ぶと高額になってしまう。そういう時に、低価格で利用でき気軽に予約できる交通システムがあれば便利ですよね。また、学童保育や塾の送迎にも活用できます。

しかし、ドライバーの人件費を考えると、低額料金では厳しい。理想的には、自治体が補助を出してくれるのが一番ですが、それが難しい場合、地域の病院やドラッグストア、スーパーなどがスポンサーになる形も考えられます。こうした取り組みを進めることで、高齢者や子どもたちに優しい地域づくりが実現できるのではないかと考えています。

今、うちの会社も、技術者が30人ほどの小さな規模ですが、同じような規模の中小企業が連携することで、新しいビジネスを生み出すことができるはずです。このように、僕たちの技術を地域の課題解決に活かすことで、新しい価値を生み出していきたいと考えています。

社会福祉に関して営利的なビジネスはタブー視されがちですが、大野さんはどのようにお考えですか?

たしかに、タブー視される風潮はありますが、私はそうは思いません。

日本の社会保障費が年々増加し公的な資金だけでは福祉サービスにも限界が見えて来ています。福祉の分野に民間の企業が参入する事で新たなビジネスとしての可能性は十分にありますし、持続可能な形にしなければ、本当の意味での支援にはならないと思っています。

例えば、健康や社会福祉の分野で「誰もが暮らしやすい共生社会づくり」をテーマにしたビジネススキームを考え、定期的にミーティングを開催しています。これにはさまざまな業種の人が参加しており、毎回50人以上が集まるほど盛況です。その場では、地域の課題について自由に議論し、新しいアイデアが生まれています。お酒の席で話していると、思いもよらない発想が出てくることもあります。

今後、地域創生に関して御社が求められることは何だとお考えですか?

今後は“モノを売る”のではなく“コトを売る”という形にシフトしていく必要があると考えています。つまり、単に技術力を提供するだけではなく、地域の課題を解決するソリューションを提供しなければならない。それには技術力だけでなく、コミュニケーション力やヒューマンスキルが求められるようになっています。この点は、うちの若い技術者たちの今後の課題でもあります。

以前は、地域との関わりはほとんどありませんでした。会社設立から2010年前後までは、メーカーからの受託開発の仕事が手一杯で、地元の仕事は一切手掛けていなかったんです。

ただ、私自身は、自己啓発と社会貢献活動の一環として、地域の商工会議所や法人会に参加して、地元の中小企業の経営者と交流する機会を極力持つようにしていました。
昨今、中小企業のDX化が進められる中、交流会や宴席で友人の社長に、『ちょっとシステムを見てもらえないか?』という話を持ちかけられるようになり、その結果、地元の企業とも仕事をするようになっていきました。本来ならば数千万円規模のシステム開発案件になるところを、IT導入補助金等を活用してコストを抑えながら提供することも可能になりました。そういうことができると、口コミが広がり、さらに依頼が増えていったんです。

ビジネスだけでなく社員の健康にも注力

『健康経営優良法人(ブライト500)』に選出された要因は何だとお考えですか?

当社の強みは、技術力と社員の主体性を活かした柔軟な働き方にあります。
コロナ禍でリモートワークが主流になり、社員がほとんど家から出なくなりました。直接顔を合わせる機会も減り、運動不足による健康面での不安も増えてきました。そこで『健康経営優良法人(ブライト500)』の認定を目指し、社員の健康を会社全体でサポートする仕組みを作りました。

例えば、skack等のコミュニケーションツールを使って社内で健康に関する情報を共有できるチャンネルを作り、ランニングや運動の記録を投稿し合ったり、「健康ワンポイントアドバイス」を書き込んでもらい自由に閲覧できる仕組みを導入しました。これが意外と盛り上がっていて、社員同士が互いに良い刺激を与えあっています。また、社員総会では個人目標を発表する場を設け、その中に健康目標も含めるようにしました。『健康に注意する』といった抽象的な目標ではなく、『週に1回プールに行く』とか「体重を何時までに何%減らす」といった、具体的で実行しやすい目標を設定するようにしています。

3年がかりのチャレンジでしたが、昨年2回目の挑戦でようやく『健康経営優良法人(ブライト500)』認められ、今年も2年連続で認定を受ける事ができました。因みにブライト500は、今年の実績みると、全国で19000社の認定企業の中での上位500社に与えられる称号ですので、大変光栄な事でもありました。この健康経営に取り組むことで、社員の健康が向上するだけでなく、企業としての評価も高まります。今後も地域社会と連携しながら、より良い働き方を模索していきたいと考えています。

「100年経っても続けられる会社」を目指して

今後の御社の課題をお伺いしてもよろしいでしょうか。

持続可能なビジネスを構築していくことが最重要課題です。現在、会社がちょうど40周年を迎え、25年~30年を見据えた『ソフト開発ロードマップ』を作成中です。業界のトレンドは常に変化しており、5年後・10年後にどうなっているかは予測が難しいですが、私たちもその変化に対応していきたいと考えています。

事業継承についても、いずれ真剣に取り組まなければいけない課題です。私は本当は60歳で引退するつもりでした。もちろん、やりたくないわけではないのですが、記憶力も衰えてきていますし、健康面を考えても、そろそろ次世代にバトンを渡す準備をしなければと思っています。M&Aの話もよく持ち掛けられるようになってきましたが、今現在はそれを目的にするのではなく、事業継承の一つの選択肢として戦略的に考えています。

例えば、うちの会社だけでは実現できないような地方創生のプロジェクトが、大手企業と組むことで実現できるのであれば、それも良い選択肢だと思います。また、MBO(マネジメント・バイアウト)の選択肢もあります。銀行からも『MBOをやるなら支援しますよ』と言われています。ただそのためには、次を担う経営者が必要です。僕がいなくなった後も続けられる会社にするために、今から準備を進めているところです。

大野さんは今後どんな会社にしていきたいとお考えですか?

そもそも僕は、世間にある程度通用する一人のプログラマーとして仕事が出来、生計がたてられればそれで良いと思っていていました。

その僕が、まさか会社経営に携りソフト開発の社長としてこの会社の将来の姿に言及する立場になろうとは、本当に夢にも思っていませんでした。(笑)
うちは40周年を迎えましたが、50年、60年、70年と続けられる会社にしたいと考えています。もちろん、僕は100年後にはいませんが(笑)。

社員にも定期的にアンケートをとり、どういう会社にしたいかを聞いています。

ただ、彼ら自身も明確な答えを持っているわけではありません。
でも一つ言えるのは『この会社がなくなると困る』ということ。だったら、 “困らないため”に、働き続けたくなる会社にしていく必要があります。「社員を含む全てのステークフォルダーに必要とされる会社をつくる!」そんな僕らの企業文化が根付けば、それが会社の強みになりますし、取引先やパートナー企業からも『ソフト開発がなくなると困る』と言ってもらえるような存在になれると思います。
中小企業の経営を研究されている法政大学の坂本教授が提唱する『日本で一番大切にしたい会社』という基準がありますが、うちもそんな企業の一つになりたいですね。

40周年の節目として、5月には社員を集めてイベントを開催する予定です。そこでは、これまでの歴史を振り返りながら、今後のビジョンについても共有する場にしたいと考えています。

最後に、御社が求める人物像について教えてください。

うちの新しいビジネスとして、自社製品を活用した地域向けのサービスを展開しています。ただ、私たちはもの(アプリケーション)を作ることは得意ですが、それを運用し、保守管理をしてくれる人が不足しています。販売に関しても同様です。社内で対応できれば良いのですが、現状はリソースが足りません。ですから、社外の人たちとアライアンスを組めるような形にしたいと考えています。

例えば、現在進行中の『支え合い交通』や『商店街活性化支援アプリ』のプロジェクトでは、異業種の方々と連携しながら取り組んでいます。『支え合い交通』は、地域の医療介護事業者と協力し、すでに実証実験を進めています。4月以降には本格的に運用が始まる予定です。こうしたプロジェクトに興味がある方、または、人と人の絆を大切にし、安心・安全・快適な暮らしの実現に向けて、私達のデジタル技術を提供させて頂く仕事を一緒に取り組んでくれる方がいれば、是非お声がけいただきたいですね。

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COMPANY 企業情報

企業名
株式会社ソフト開発
代表者
大野 純一
所在地
〒194-0004 東京都町田市鶴間8-4-30 クレインドビル
設立
昭和59年10月8日
事業内容
・マイコン制御系(通信/プラントetc)システムの受託開発
・ネットワーク及びデータベースシステムの受託開発
・Web/クラウド関連 システムの開発/販売
・コンピュータ導入のコンサルテーション及びビジネスアプリケーションの開発
・その他上記に関連または付随する業務
HP
https://softkaihatsu.co.jp/

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