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“使わない発想”で切り拓く、日本初のものづくり。企画も手がける社長の挑戦

株式会社たかくら新産業
代表取締役社長 高倉 健氏
公開日:
2025.05.26
更新日:
2025.05.26

西武百貨店の花形「企画職」として入社、バブル崩壊と同時に独立

まずは高倉さんご自身のご経歴をお伺いしてもよろしいでしょうか。

私はもともと西武百貨店に入社し、4年間勤務していました。
当時の西武百貨店はものすごく人気がありました。就職人気ランキングでも、地元ではトップ10に入ってくるような企業で、私が入社した当時も、たしか6位とかだったと思います。
今で言うなら、総合商社だったりANAだったり、あるいは大手銀行のような、そういったポジションにありました。

西部百貨店ではどんなお仕事をされていたのですか?

私は非常にラッキーなことに、新入社員でいきなり「企画」という仕事を任せてもらえたんです。
百貨店の中では、この「企画」という部署が一番の花形と言われてます。通常であれば、3年~4年は売り場で研修を積んでから、本配属されるのが一般的です。
当時の西武百貨店は、「自分でやりたいと言える人」が強かったのです。意欲のある人にはチャンスを与えてくれる会社でした。もちろん、パフォーマンスを上げられなければ残れませんが。
また、これはちょっと厚かましい話だとよく言われますが、百貨店に入社が決まると、だいたいどこも内定者をいわゆる「研修」という名目で、お歳暮の対応などを手伝うことになります。自分にとって入社前の最後の春休みなので、「すみません。私アメリカに卒業旅行で2ヶ月行きたいので、研修には一切参加できません」と私は人事に直談判しました。

当時の人事の方も驚かれたのでは?

人事の方も「いいよ、そんな研修なんかどうでもいいし。社会人になったら長く海外行けるわけじゃないんだから、今のうちに行っておいで」って言ってくださったのです。
なのでありがたく「行ってきます!」と言って2か月アメリカを旅しました(笑)。

新入社員でなかなかそこまで言えないですよね。

そうですよね、でも実は、さらにもう一つお願いをしました。
当時の西武百貨店は支店を含めると北海道から九州まで、全国展開していました。
「どこに配属されるか分からない」と言われる中、私は「すみません、池袋か渋谷じゃないと嫌なんです」と言いました。
もちろん驚かれましたが、「私はその2店舗以外は無理なので、お願いします」と。
人事の方も「そんなやつ初めて聞いたよ」と言われましたが、“合同入社式”で新入社員が一斉に集まる中、配属先が発表され、私はそこで「渋谷店」と発表されました。

渋谷店に配属されてからはどんなお仕事をされていたのですか?

渋谷には、西武百貨店が立ち上げたファッション専門館がありました。
そこはもう“超”ファッションの館で、今でいうところの「セレクトショップ」の走りでした。
当時は、インポートブランドがそのまま個別に店舗を出すというのが主流でしたが、そこでは売れていないインポートブランドをいろいろ買い付けて、一つの売り場として展開していました。
その中で売り場をつくったり、デザイナーとのコラボ企画を仕掛けたりと、さまざまな新しい取り組みをしていました。
今でこそ当たり前ですが、当時は本当に斬新でした。
そこで、海外のファッションブランドもたくさん担当しました。
たとえばマルジェラの日本でのプロモーションは、自分でプレゼンした企画を通してもらえました。他にも、海外の先進的なブランドに関するプロモーションをたくさん担当させてもらいました。
こうして4年間ぐらい西武百貨店で働いて、ある程度「川下」(=販売現場)でのことは勉強できたので、次はもっと「川上」(=モノづくり)を学びたいと考え、商社に転職しました。

人気の西部百貨店から独立しようと思ったきっかけはなんですか?

私の祖父と父はともに事業を営んでおり、私はその三代目という立場でした。
事業自体は継いでいませんが、祖父母からは「健ちゃんは高倉家の三代目だから、高倉家を背負っていくのよ。」と言われ育てられました。まだサラリーマンはなんぞやということをよく分からない頃から、自分で事業を興すというイメージを自然と持っていました。
だから、なんとなく、30歳までに独立しようということを、自分の中でザクっと決めていたんです。その結果、29歳の誕生日を目前に控えた6月29日に独立しました。
ちょうどバブルが崩壊した時だったので、その頃、周囲からは「一つの事業に集中すべきだ」と言われていました。当時は一つのことに専念するのが当たり前で、複数のビジネスを同時に展開することなど考えられなかった時代です。
「商売が苦しい中で二足三足のわらじを履くなんて無謀だ」と言われていましたが、私は当初から、一つのことに依存していると、万一それが崩れたときに全てを失うリスクがあると考えていました。だから、いろんな窓口を持ちたいと考え、始めたのがきっかけです。

独立してからはどんなお仕事をされていたのですか?

最初から複数の事業を手がけるつもりで、すでにいくつかの構想を持っていました。
一つはアパレルの企画・生産。海外から商品を仕入れる業務も行っていました。その後、アパレル事業は長年続けてきましたが、2年ほど前にコロナの影響でやめました。
アパレル業界が大きな打撃を受け、私たちの仕事も厳しくなった一方で、人向けおよびペット向けの事業は大きく成長していたため、そちらに注力することにしました。

ペット事業も展開されていますが、ペット事業をはじめるきっかけはなんですか?

ペット事業はもう26~7年になります。
意図的に計画したというより、ごく自然な流れから始まりました。
きっかけは、弊社のスタッフがゴールデンレトリバーを飼い始めたことです。
その犬を毎日会社に連れてきて、みんなでその犬を可愛がっていました。
そんな中、当時の市販のペット用品は、添加物や不明瞭な成分が多く、「これでは安心して使えない」という声が社内から上がって、「じゃあ自分たちで探そう」と始めたのがきっかけでした。

伊勢丹・阪急へ異例の出店をするも、やりたいようにできずうつ病に

御社の製品を作る上でのこだわりを教えてください。

現在、うちの会社は、「日本初」か「日本唯一」のものしかありません。
普通ならそんなものは探したってないです。
そういった視点でビジネスを展開している会社も少ないと思います。
けど、うちはそれしかない。
すべて私が「やりたい」と思ったこと、「作りたい」と感じたものに従って進めています。
例えば、原料に関しても、日本初の素材や、日本で唯一の成分など、他社が扱っていないものを選んでいます。世界中、日本中を自分の目で見て回り、「こういうものに出会いたいな」「こういう人に会いたいな」と思ったものを、自分の感覚を頼りに見つけていくんですけど。

ご自身はどんな経営者だとお考えですか??

そもそも私は商品を作る際に、マーケティング調査を一切しません。
これまで、一度もしたことがないんです。
なぜならば、自分が「本当に欲しい」と思うものしか作らないです。
常に意識しているのは「日本で一番うるさい消費者であろう」ということ。
ちょっとした違和感や使いにくさでも気になってしまうタイプで、自分自身が納得できないものは、たとえばビジネス的に成功しそうでも世に出すことはありません。
自分自身が使いたいと思えるものを作らないと、お客様にも届けられないんです。
経営者であると同時に、商品開発の責任者でもある。
だからこそ、モノづくりに対するこだわりは人一倍強く持ってます。
また、私は理詰めで考えるよりも“直感”や“感性”を大事にしてます。
「この人に会いたいな」と思ったら出会えることも多く、
「こういう商品が必要だ」と感じたら、すぐに動く。
感覚的な経営をしているかもしれませんが、30年続けてこれたのは、その“感性”が多くの人に共感されてきたからだと信じています。

製造する上で難しいと感じる部分はどんなところですか?

現在、弊社では新商品をたくさん出してます。
その中で一番の悩みは、“生産の難しさ”です。
ありがたいことに売れてるけど、商品が作れない状況です。
お客さんから「買いたい」と言われてるけど、生産が追い付かない。
こだわりの原料や製法に対応してくれる工場が限られているため、思ったように量産できないのが常です。
わたしたちは、商品開発の段階で、工場にさまざまなお願いをします。たとえば「添加物を一切使わない」「砂糖を使わない」といった条件です。こういう条件は、普通の工場からすると「最悪」です。
効率は悪いし、安定して生産できないし、原料も不安定なんですね。
でも、このやり方でビジネスは成り立つのか?と問われれば、「一応30年やってます」と答えます。

経営者として大事にしている考え方はなんですか?

「万人にとってそこそこ良い商品」ではなく、「特定の誰かにとってものすごく良い商品」が求められる時代になっています。
今の時代、消費者のこだわりが確実に強くなっています。

だからこそ一見万人受けしそうに思える“末広がり”の商品は、実際、誰の心にも刺さらないことが多い。
私は、自分のように「モノづくりに強いこだわりがあって、本当に納得できるものしか使いたくない」という人に向けて商品を作っています。
一見すると一方通行に見えるかもしれませんが、このくらい明確にメッセージを打ち出すと、意外と反応してくれる方が多いんですね。
それと、わたしはこれまで一度も「儲かるからやる」という発想で商品を作ったことがありません。
売上目標や事業計画書に縛られることなく、「これを使って誰かが喜んでくれるか」という視点で、すべての意思決定をしています。
だからこそ、商品を作るときは常に商品を利用するひとのQOLの向上を意識し、生活者として実感ができ、「ありがとう」と言ってもらえるか。
その一言を目指して、私が日々モノづくりに向き合っています。

常にお客様目線で経営されているのですね。

わたしは「無理だ」と言われることにも、あえて挑戦し続けてきました。それが私たち中小企業の生き残る道だと思っています。
世の中には多くの不満があると思います。でも、多くの人は「しょうがない」で終わらせてしまっているのです。
たとえば「差別化したい」と思って工場にお願いしても、「そんなの無理です」と言われるそうすると、いつの間にか“工場ができる範囲内”でしか考えられなくなってしまうんです。
たとえば今、当社で非常に売れている飴があります。
月に5万個売れている商品で、これは“使わないものにこだわった飴”。

もちろん、入れている原料にもこだわっていますが、開発の出発点は「何を使わないか」という視点でした。
この考え方の背景には、私は常に自分が消費者として「何を求めているか」を考えてきた姿勢があります。
コロナ禍を経て、健康意識が急速に高まったのに加えて、戦争やインフレの影響も重なり、家計は厳しくなる一方で、多くの方が「本当に良いものを選びたい」という気持ちが強くなったと思います。
その流れの中で、「変なものが入っていないものが欲しい」と考える人が増えてきました。たとえば無添加にこだわるママさんたちの中には、SNSで10万人以上のフォロワーを持つインフルエンサーも珍しくありません。
それだけ、添加物を避けたいというニーズが高まっているんですよ。

さきほどご紹介いただいた飴について詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか。

この飴を作るにあたってお願いしたのは、創業116年の日本で最も歴史のあるお菓子メーカー「ライオン菓子」さんでした。
長年、砂糖・還元水飴・添加物を使った飴を作り続けてきた老舗です。
そんなライオン菓子さんに、私はこうお願いしたんです。
「白砂糖を入れないでください」「還元水飴も使わないでください」「添加物もなしでお願いします」と頼みました。
普通なら間違いなく断られる内容です。「そんなことできるわけがない」と言われて当然です。
でも私は、そんなときこそ“人の善意”に語りかけるようにしています。
どんな人でも、自分の子どもに与えるとしたら、添加物まみれの飴より、無添加の飴を選びたいはずです。
ただ「仕事だから」「会社の方針だから」と、やりたくてもできない人が多いんです。
だから私は、工場の方々に対しても、基本的に「ありがとう」と「ごめんね」しか言いません。
とても無理なお願いをしている自覚があるからこそ、失敗を重ねながらも「ありがとう、もう一回お願い」「ごめんね、でも本当にこういうのを作りたい」と誠実に伝え続けているんですね。
実際、この飴は通常なら3回の試作で終わるところを、48回試作を重ねて完成しました。
この飴は、なんと開発に2年もかかりました。

かなりこだわり抜いて作られたのですね。メーカーさんも困惑されたのではないでしょうか。

よくこんなお願いを聞いてくれたなと思いましたよ。
この飴、相場なら1袋200円くらいのところを、なんと1袋500円。
ライオン菓子の担当者も「これは売れないだろう」と思っていたみたいです。
「500円の飴なんて、給料も上がらない今の世の中で売れるはずがない」と。
でも私は、原料に徹底的にこだわり、“入っていないこと”にもこだわることで、この商品は支持されると信じていました。
事業計画などは一切ないので、誰にも「この商品が売れるかどうか」なんてわからないのです。
ライオン菓子の方々も、「1回出荷して終わりだろう」と思っていたそうですが、結果としてこの飴は今、月に5万個出荷されるヒット商品になりました。
それでも尚、生産が追いついていないのが現状です。
私たちの商品には、添加物を使用しないという方針があります。
そもそも添加物は加工をしやすくするために使われるものです。
ですが、私たちは「やりやすさ」ではなく「本当に良いもの」を目指す企業です。
よく「そんなの無理だ」「できない」と言われますが、私は「できない」のではなく「やらない」だけだと思っています。
たとえば工場にとっても効率が悪く、利益が出るかも分からないことをやる意味があるのか、という意見もあります。
それでも、それが消費者のためになるなら、やる意味は十分にある。だから私たちは挑戦します。

多くのメーカーさんと取引されていますが、最初はビックリされるのでは?

たとえば今、グミの商品を手掛けていますが、実はこれが想像以上によく売れています。
でも、製造をお願いした工場の方に最初に言われたのが「高倉さんが初めて来たときは、ややこしくて変な人が来たと思いました。常識外れのことばかり言うし、本当に困った」と。
でも、その人は、
「高倉さんのオーダーを受けて、自分の中で大きな変化がありました。
今まで何十年も、添加物や砂糖の使用に疑問を持ったことがなかった。
でも、このグミが売れているのを見て、実はそういうものを求めていた人がこんなにいたんだと知って、ものすごくうれしくなった」と言っていたんですね。
けど、その人は最後に、こう言ってくれました。
「もちろんこの商品は、技術さえあれば他の会社でも作れます。これは高倉さんのためだけに作ります」と。

正直、私のビジネスは他の人には参考にならないかもしれません。
なぜなら、私個人の感覚に基づいたやり方だからです。
でも一つだけ確信しているのは、「しょうがない」「こういうもんだ」という考えでは、絶対に突き抜けられないし、非常識を実現しないと、ビジネスはできない。
売れている商品に便乗して「パン屋が流行ればパン屋、高級食パン、フルーツ大福、タピオカ…」と二番煎じを繰り返しても、商売は続かないですよ。
それは一時的な儲けでしかなく、本質的な差別化にはならないです。
本当に重要なのは、お客様にとって明確なメリットがある差別化をどこまで突き詰められるかなのかなと思います。

妻の乳がん、そして自身も原因不明の病で入院。病気にならない身体づくりのためオーガニック思考へ

御社の事業ではオーガニック・無添加にこだわっていますが、そのきっかけはなんですか?

きっかけは、妻が乳がんになったことです。
妻が入院して、退院した次の日に、私自身も原因不明の病で倒れました。
2週間で13キロおちて、命の危機を感じるほどの体調不良にあいました。
そのときに、私は気づいたのです。
西洋医学にはできることとできないことがある。
現代人の不調の7割は原因不明だと言われており、私が処方されたのもビオフェルミンでした。
退院後、夫婦で鍼や漢方に通うようになり、「病気にならない体をつくる」ことの大切さに気づいて、オーガニックの道に入りました。
その中で出会った概念が「経皮吸収」です。
海外の文献によれば、皮膚から体内に吸収される経皮吸収率が部位によって異なると言われています。たとえば腕の内側を基準とした場合、頭皮では3.5倍、脇では3.6倍、下あご(口腔内)では14倍、そしてデリケートゾーン(男性の睾丸の皮膚)では42倍にもなるという報告があります。
その事実に衝撃を受け、「吸収率の高い部分には、オーガニックの製品を使うべきだ」と考えに至り、シャンプーや歯磨き、デオドラント、そしてデリケートゾーン用製品の開発に取り組むようになりました。

デリケートゾ-ンのケアがトレンドになる前から製造されていたのですね。

当時の日本には、デリケートゾーンケアの文化がほとんど存在していませんでした。
あるとき、私がイタリアの工場を訪れた際、小さなホテル3軒利用しましたが、すべてにデリケートゾーン用ソープがおかれていました。
その一方で、歯ブラシはどこにも置かれてませんでした。
つまり、イタリアではデリケートゾーンケアの方が優先順位が高いんですね。
私はその文化を日本にも伝えたいと考え、製品化に踏み切りました。
ですが、最初はまったく売れませんでした。
「こんな商品は見たこともない」「売れる自信がない」
―そう言って、多くのクライアントに断られました。
それでも、私が社長であり商品開発の責任者だからこそ、このプロジェクトは止まりませんでした。
もし私の上に別の経営者がいたら、「事業計画は?」「いつできるのか?」と問われ、止められていたかもしれません。
私たちは、たとえ売れるかどうか分からなくても、「必要なもの」であれば作るというスタンスを貫いています。
「これはいつか日本の女性にとって必ずメリットになる」――そう信じて、産婦人科の先生や助産師さんと協力しながら、デリケートゾーンのケアに関するセミナーを開始しました。その重要性を伝える活動を地道に続けていたところ、5年ほど前に急に「フェムテック」という言葉が登場し、いろんなブランドが一斉にデリケートゾーンケア商品を発売し始めたのです。

高倉さんが考える失敗体験はありますか?

私は創業当初、インポートビジネスをしていました。
当時はパソコンも一般的ではなく、帳簿は手書き、売上管理も紙ベースで行っていた時代で、会社を立ち上げたときはパソコンは持っているものの、2年間まったく使いませんでした。それほどまでにアナログな時代だったのです。
そんな中、私は海外から日本にまだ紹介されていない“面白い商品”を次々と輸入しました。
たとえば、アロマセラピーやボクサーブリーフなど、日本ではまだほとんど知られていない時代に、いち早く導入しました。
その後もIPO関連の商品など、「日本初」の商品にこだわって事業を展開してきました。
そんなときにスペイン・バルセロナ発の超高級スキンケアブランドを導入する機会が訪れました。
ニューヨークで非常に人気のあったブランドで、私はすぐに契約を結び、日本での展開をスタート。
アパレルとコスメを一緒に販売するという新業態の店舗で販売を始めると、自分でも驚くほど売れたんです。
その勢いで、三越百貨店に誘われ、さらに阪急百貨店の化粧品フロアにも出店が決まりました。
……しかし、これが大きな失敗の入り口だったんです。

大手百貨店への出店はかなり大きな転機だったのでは?

当時、伊勢丹と阪急は世界で最も売上の誇る百貨店として知られており、そこに入店するというのは異例の快挙でした。普通では“ありえないこと”です。
しかし、これが“地獄の始まり”でした。
大手百貨店に入ることで、毎月高額な広告出稿が求められました。
雑誌の見開き2ページで500万円とかね。そういう世界です。
当時は今のようにまだSNSもない時代、宣伝はすべて紙媒体でした。
伊勢丹のバイヤーとの月例ミーティングでは「今月の広告は?」と詰められることもしばしば。
私はそれまで「自分で考え、自分のやりたいようにやる」というスタンスで活動しており、アロマセラピーのときも、男性用下着のときも、協会には一切所属せず、常に消費者目線で動いていました。しかし伊勢丹と阪急ではそれが通用しなかったのです。
伊勢丹では「ナチュラリストは小さな会社だから、サービスが少なくても仕方ない」とは見なされず、他の大手ブランドと同等の広告対応を求められました。

第三者から見ると大成功に見えますね。

外から見ると「大成功」だと思われていたと思います。
でも実際には資金繰りが“火の車”。
広告費が膨らみ続け、2年間ほど続けてきましたが、ついには身体も壊し、うつ病になってしまいました。
私自身がコントロールできない状況の中で、やめたくてもやめられなかったのは、「世界一、二の百貨店から誘われた」――そんな重圧があったからです。
「ここをやめたら、もうビジネスができなくなるのではないか」そう恐れていたんですよ。
そんなとき、妻のがん、さらに自分自身も病に他終えました。
「このままだと本当に命を落とす」
そう思い、ついに伊勢丹に撤退を申し出ました。
伊勢丹の対応は意外にもあっさりしたもので、
「わかりました。いつまでですか?」と聞かれただけでした。
私はこの経験から大きなマインドチェンジをしました。
撤退したときには大量の在庫を抱え、経営も一時危機的状況に陥りましたが、この失敗があったからこそ、今の私がある。
――30年の経営の中で、赤字を出したのはこの時期だけ。
“黒歴史”のようにも見えるこの経験は、私にとって重要な「成長の源」ですね。

オーガニックを手に取りやすく、「使わないもの」にこだわる

今後の業界のトレンドやそれに合わせて御社はどう変化していきますか?

私は必ず毎年海外のエキスポに足を運んでます。
展示会はだいたい3〜4日間、1日8時間くらい歩きっぱなし。
展示会行っても日本人の多くのバイヤーはパッと見てパッケージやキャッチコピーだけで判断するのですが、私はすべてのブースを訪問し、現地の人の“こだわり”を一つひとつ聞いて回るようにしているんです。
そうしたリサーチをする中で、この2~3年の中で一番大きなキーワードは、「ビーガン」。
ビーガンはオーガニックも含まれますが、簡単にいうと「動物性のものではなく植物性のものを使う」ということですね。
その背景には「ケミカルなものを避けたい」という根本的な流れもあります。
その中で、私たちは長年、オーガニック製品を手掛けてきました。
もともと、私が20年前に病気をした経験から、「本物のオーガニックを作りたい」と強く思うようになりました。当時のオーガニック製品には、少しオーガニック成分が入っているだけにも関わらずオーガニックを謳う製品が多かった。そこで、私は世界で初めて“オーガニックのパーセンテージ”表記を始めました。
しかし、ここにきて私たちのブランドを大きく変える決断をしました。
そこで、新しいブランドとして掲げたのが、「だいじょうぶなもの」
「オーガニックだから良い」ではなく、「必要のないものが入っていないこと」の方が大事。そんな価値観が、今の消費者の中で確実に広がっていると感じているからです。
天然成分は欲しいけど、オーガニックにいきすぎるとコストが高くなります。トレンドの中で要は最高のオーガニックよりも、必要のないものが入っていないことを重要視する方が増えてきています。

トレンドに合わせてリブランドしていくのですね。

はい。やっぱり同じ会社でも、ブランドをまたいでいくのは非常に難しいんです。
ブランドに対する利益ってすごい大事だなと思っています。
「だいじょうぶなもの」というブランドは、毎月たくさんの方に知っていただいています。「使わないものにこだわりました」という考え方に共感してくださる方が、本当に多い。
なので、今までのようなオーガニックパーセンテージを上げることっていうことではなく、天然成分100%。裏にも、「使ってないものにこだわりました」っていうことを記載し、“使っていないもの”を明記するようにしているんですね。
こういった共通したコンセプトのブランドで、現在リブランディングしています。
このブランドを、私たちはこれから世界に売っていこうと思っています。
海外のアメリカやヨーロッパ、オーストラリアにも「だいじょうぶなもの」の飴や化粧品を世界に向けて展開していくことが目標ですね。

御社では製品を通じてどんな社会貢献をされていますか?

社会貢献についても、私たちはオーガニック企業として環境配慮にしています。
たとえば、海洋プラスチックゴミを50%再利用した容器や、石を再生して作ったストーンペーパーをラベルに使用するなど、環境にやさしい取り組みをいち早く取り入れています。
寄付活動としては、ドナルド・マクドナルド・ハウスへの製品寄付、震災時やコロナ禍での児童養護施設への支援なども行ったりしていました。
ホームページには特に記載していてしないんですけど、私たちにとっては「当たり前のこと」であり、特別にアピールする必要もないと考えています。

今の若い方に向けてアドバイスはありますか?

人材は今も不足しています。
だからこそ、もし私たちの考えに共感して「一緒に働きたい」と思ってくれる方がいれば、ぜひ来てほしいと思っています。
また、私は個人としてもセミナー活動を続けています。
昨日も大阪でセミナーを開催し、30代の方々を中心に約120人が集まってくれました。
このセミナー、すべて無料で開催しています。
なぜかというと、それはもう“自分のライフワーク”なんです。
私がビジネスを30年続けてこられたのは、数え切れないほど多くの方々に助けていただいたからこそ。
だからこそ、“次世代の若い人たちに向けて、何かを送りたい”と考えています。
もっと頑張ってほしい。
もっといい結果を出してほしい。
そして、これからの日本をつくっていってほしい。
私は本気でそう願っています。
私は、これまで、“正直に、まっとうに”ビジネスをしてきました。
でも今の世の中では、残念ながら「少し嘘をつかないと儲からない」と思っている人も少なくありません。
それに対して、うちは“綺麗事”だけでやっています。
もちろん、「何か裏があるんじゃないか?」と思われることもあるかもしれないです。
でも、後ろめたいことは何ひとつない。
そして、そういう姿勢を貫く企業が存在することで、「ああ、自分たちもちゃんとやろう」と思ってくれる人たちが増えてくれたら、それだけで意味があると思っています。

起業でつまづいている若い人や、困っているメーカーに向けてどんなアドバイスを送りますか?

起業した人たちは、誰しもどこかでつまずきます。
そのとき、「やりたくないけど、こっちをやってみようか…」と迷う場面に直面することもあると思うんです。
でも、そんなときこそ、誰かに相談したくなるんです。
私は、そういった相談にいつでも乗れる存在でいたいと思っています。
「今つまずいている」
「どうしたらいいかわからない」
そんな若い起業家の方がいれば、遠慮なく話しかけてほしいです。
また、企業としても「モノづくりの技術はあるけど、何を作れば売れるかわからない」というメーカーさんがいれば、ぜひ一緒に考えていきたい。
そういったご相談は、私たちにとって“ウェルカム”ですし、むしろ大好物です。
一緒に考え、一緒に悩み、一緒に挑戦していけたら嬉しいですね。
つまづいたときこそ、誰かとつながってみる。
それが新しい一歩につながるきっかけになるかもしれません。

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COMPANY 企業情報

企業名
株式会社たかくら新産業
代表者
高倉 健
所在地
〒106-0031 東京都港区西麻布2-13-6 K’s 西麻布3F
設立
平成5年6月29日
HP
https://takakura.co.jp/

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